いつ死ぬか、どこで死ぬか

 自分で自由にそれを決められたら、一番いいのだろう。でも果たしてそれが可能かどうかは分からない。
 ふと思うことがある。オヤジは最後は埼玉の病院で亡くなった。痴呆になり、病院を転々と追い出され、そこはオヤジの故郷でもなければ、実家でもなし、長男であるオレの家とも縁はない。ケアマネージャーがふと漏らした候補の一つに過ぎない場所。オレが藁にもすがる思いで見つけた場所だった。
哀しいアフリカ―国際女探偵、呪術の大陸を行く」からの引用。

 死ぬとすればどこがいいだろうかと、わたしは考えた。が、死に特別な意味を与えてくれる特別な場所など一つも思いつかなかった。どこで死ぬか。そんなことはどうでもいい。わたしを悩ませているのは、いつ死ぬかだ。わたしは昔から人生を一幅の絵のようにも、エジプトの古墳の壁に描かれたヒエログリフのようにも、映画の一巻のフィルムのようにも思っていた。要するに、最後の部分が一番重要なのだ。一番すばらしくなければならない。

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進歩は善なり?

 特に今のようなネット時代にどっぷりつかった毎日だと、「進歩は善なり」は当たり前すぎて、誰も疑問すら持たない。でもちょっと待った!と立ち止まることも時には必要だよな。
 リンボウ先生のこの本「ついこの間あった昔」の「滅びゆく技術」からの引用:

それから思うと、何でもただ同様のコストでさっさとコピーしてしまう現代の学生たちは羨ましいけれど、しかし、一方で、このガリ版を切りつつ、一文字一文字、それこそ石に文字を刻むような心がけで字を書いたことによる、知識の脳みそへの定着と言うことを思うと、すべてが進歩して良かったとばかりは言えないのである。

 ガリ版なるものを使ったことのある、年代には特に身にしみる。

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